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野口五郎 前編

昭和歌謡_其の四十

♪~伝言板に君のこと~♪

『私鉄沿線』に想う(前編)

私が主宰する「昭和歌謡を愛する会」で人気の企画に、『死語ソング』の特集があります。

戦前、戦中、戦後、あまたある昭和歌謡のヒット曲、話題曲の中から、歌詞やタイトルに、令和元年の今、ほぼ使わなくなった&見聞きしなくなった【日本語】が使われている楽曲を取り上げ、

その言葉=死語について、会の常連の皆さんと、「私はまだ使ってるわよ、その言葉」「いや、俺はもうとっくに使ってないなぁ」など、にぎやかに語り合うわけです。

私が楽曲の1つに、野口五郎の大ヒットソング・『私鉄沿線』(1975年1月20日発売/作詞:山上路夫/作曲:佐藤寛)を選んだのは、歌詞の中に「伝言板」が登場するからなのですが、まだスマホはおろか、ポケベルも留守番電話もなかった、昭和の〝あの〟時代……、駅の改札口を出たところに、かならず置かれていたのが「伝言板」でした。

いったん自宅を出てしまえば、途中で、何か突発的に待ち合わせの時間などの変更が生じても、相手に伝える手段がありません。個人情報がどうの、コンプライアンスもへったくれもありません。〝あの〟時代は、駅の「伝言板」の書き込みが、唯一、私たちの生活のピンチを救ってくれたのです。

若い世代は、どのようなツールでも、自分たち流にアレンジして楽しんでしまえるものです。脳細胞が柔軟で、思考の自由が利く証拠でしょう。それは昔も今も変わりませんよね。「伝言板」の書き込みも、当初は緊急連絡のみだったはずですが、そのうち、誰がやり始めたか? 恋人同士や、告白したい相手への愛のメッセージ、その逆で、「だいっ嫌い!!」になった相手に送る、三行半がわりの、ミモフタモナイ罵りの言葉……で彩られるようにもなりました。

他ならぬ私も、というより私たちも、ですかね。「伝言板」には1つ、苦い記憶があります。私が通っていた高校は、東京メトロ「銀座線」の赤坂見附駅が最寄りになるのですが、高校3年時でしたか、文化祭の開催日に、どこかのクラスの生徒が自分たちの催し物のPRを、軽く数行ほど「伝言板」に書き込んだのです。

すると、それを見た別のクラスのやつが、同じくPRを書き込みました。順に各クラスのPRが「伝言板」に次々に書き込まれ、とうとうすべての空欄が、白、赤、青、緑色のチョークをフルに活用した、さまざまな生徒の直筆の、「わがクラスの出し物自慢!!」で埋め尽くされたのです。

これに激怒したのが、赤坂見附駅の関係者です。当然でしょう。他の乗客が、本来の伝言板の使い方である、緊急事項を記したくても、書き込むスペースがない!! のですからね。駅長から校長宛てに連絡が入り、文化祭の実行委員長は呼び出され、校長から大目玉を喰らった後、駅まで謝罪に出向き、そこでまた駅長から大目玉を喰らったという……。以降、わが校の在校生は、しばらくの間「伝言板」の書き込み禁止!! のお達しが発令されたのです。

こんなエピソードを、スマホ文化に洗脳された、令和元年の〝現役の〟母校の在校生が聴いても、おそらくクスリとも反応しないでしょうね。ニヒルに「意味がわかりませんが」と返されるのがオチ。

「伝言板」が、私たちの生活に連動していた〝あの〟時代ならではの、バカバカしいながらも、ある意味、若者らしき、まっとうな暴走だったように感じます。

私鉄沿線

想えば〝あの時代〟は、不便なことばかりでしたが、その分、私たちはみな、毎日の生活に知恵を働かせ、何とか面白おかしくやり繰りしたものです。

猫も杓子もスマホ一台ありゃ「何でも用済み」になってしまう時代は、すでに便利さを超越、逸脱しすぎています。結果、われわれ人間の脳ミソは思考停止に追い込まれ、精神機能も確実に破壊され続けていることに、そろそろ気付くべきじゃあないでしょうかね。

♪~改札口で 君のこと いつも待ったものでした
  電車の中から降りてくる 君を探すのが好きでした
  悲しみに心 とざしていたら 花屋の花も変わりました
  僕の街でもう一度だけ 熱いコーヒー 飲みませんか
  あの店で聞かれました 君はどうしているのかと

  伝言板に君のこと 僕は書いて帰ります
  想い出たずね もしかして 君がこの街へ来るようで
  僕たちの愛は 終わりでしょうか 季節もいつか変わりました
  僕の部屋をたずねて来ては いつも掃除をしてた君よ
  この僕もわかりません 君はどうしているのでしょう

  買い物の人でにぎわう街に もうじき灯り ともるでしょう
  僕は今日も 人波さけて 帰るだけです ひとりだけで
  この街を越せないまま 君の帰りを待ってます~♪

この楽曲のモデルになった駅は「小田急線の千歳船橋である!!」と、なぜか、けっこう明確に信じ込んでいる人が多いようですが、作詞を担当した山上路夫は、ハッキリと否定しています。

「僕は特定の電車を想定せずに、あくまで僕のイメージとして、都心から郊外に向かう私鉄の沿線を描いてみたのです」

歌詞を書いた本人がそうおっしゃるのですから、「その通り!!」なのでしょう。それに、たとえ山上先生が、とある駅に限定して『私鉄沿線』の歌詞を書いたとしても、小田急線がモデルになる「はずがない!!」と、私は感じますよ。

いや小田急線だけでなく、京王線も西武線も東武線も京急線も、車両の数が多く、急行、快速、特急などが猛スピードで疾駆し、普通電車、つまり鈍行しか停まらない小さな駅は、無条件に〝通過される〟……ような『私鉄沿線』は、この楽曲の歌詞内容に、まったく合致しないのです。
(以下、後編に続く)

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

 

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