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旗照夫

昭和歌謡_其の三十四

昭和歌謡のレジェンド

番外編その2

ここ数回、昭和歌謡史に遺る、まさにレジェンド的な存在の、ビッグスターをご紹介したり、昭和時代には日常用語だったものが、平成の30年間を経て、令和元年の〝いま〟となりゃ、まったく使われなくなった(はずの)言葉、いわゆる「死語」にまつわるエピソードを、歌謡曲の歌詞にからめて綴ってきました。

そのココロには、歌謡曲のみならず、昭和時代に紡ぎ出された、さまざまな文化が、たんに「古い!!」「ダサい!!」の一言で、まるで鼻をかんだティッシュをゴミ箱にポイ捨てするがごとく、ぞんざいに世の中から葬り去って、何らオノレの情動に〝引っかかり〟を感じない、そういう世相への義憤、ないし強い抵抗があるわけですが。

母校と先輩諸氏

早くも令和時代がひと月以上過ぎ去りまして、まぁ、いろいろ言いたいことは多々ありつつも……、世の中の空気自体が、ほぼ数ヶ月前と変わらなくなりゆく中で、そろそろ私も、コラムのテーマを次なる興味に移そうかなと、思った矢先の、6月2日の日曜日。私の母校・都立日比谷高校で、年に一度の同窓会が開かれました。

「都立日比谷」といやぁ、かつては全国的に知られた〝名門〟公立高校。1954年から1970年まで、大学闘争により入学試験が中止された1969年を除き、毎年、東京大学に100人規模の合格者(※1960年は186人、1964年は192人)を出し続けてきました。

そしてまた、ここ数年は、「名門復活」とばかりに、東京大学の合格者を50人ほどまで〝戻し〟、さまざまなマスメディアが賑やかに採り上げていますね。

でも私の胸中に、なんら深い感慨ひとつ浮かばないのは、私ら世代は【学校群制度】で入学した組であり、すでに東京大学には、浪人を加えても〝たった数人〟しか入れないほど、学力レベルは下がってしまったからです。

【学校群制度】というのは、都内の各学区域にある普通科の高校を、無理やり2校ないし3校くっつけて、たとえば私の該当学区域であれば、11群から15群の5つのグループに分ける方式でして、受験者は高校を選ばずに、群を選んで入試に臨みます。11群には、日比谷高校、三田高校、九段高校の3校が存在しますので、実際、発表があるまで、自分がどこの高校に合格したのか? まったくわからないのです。

実力で日比谷高校へ入ったわけでも何でもなく、そんな私たち世代の卒業生が、東京大学に192人もの大量合格者を出した卒業生たちと、オツムの出来や教養の持ちようが等価値でよろしいはずもなく、〝名門〟を誇る資格など「ほんの1ミリすらない!!」に決まっています。

まぁ、それはそれとして、日比谷高校は〝かつての名門〟だけに、さまざまなジャンルの「のちの有名人」を排出しております。作家でいうと教科書に作品が載るレベルでは、夏目漱石に谷崎潤一郎、芥川賞作家の古井由吉に、『赤頭巾ちゃん気をつけて』の庄司薫、加えて異色の変態官能作家の花園乱、つまりワタクシも、この枠の末席を汚しているわけですが(笑)。

総じて母校の同窓生は、マジメで糞面白くもねぇ、私の興味の埒外の〝つまらん〟お歴々ばかりで、こと芸能分野のビッグスター級となりますと、あくまで私の判断で、たった3人だけ、になります。

お古い順に、無声映画時代のトップクラスの弁士として、〝あの〟名調子が懐かしいでしょう、徳川夢声。日本の新劇運動の父、俳優座を設立した俳優&演出家の千田是也。そして戦後のジャズブームを、同い年のペギー葉山や雪村いづみなどと共に牽引した、現在、わが国で最高齢の流行歌手、旗照夫……ということになりましょう。

その旗先生(と、あえて呼ばせていただきますが)のヒット曲はというと、洋楽のカバーの『ハッシャ・バイ』と、オリジナルの歌謡曲『あいつ』(1960年発売/作詞&作曲:平岡精二)ぐらいしかなく、ペギー葉山とは、世間の知名度において圧倒的な〝格差〟がありますねぇ。

でも、どっこい、NHKの『紅白歌合戦」に、昭和31年から7年連続で出演するほど、全国的に名前が知られた、超のつく有名芸能人……なわけです。

旗照夫

想えば私の在学時代、毎年6月に開かれる、クラス対抗歌合戦スタイルの「合唱祭」がありまして、審査員席に、派手なジャケットを身にまとい、眉毛を釣り上げ、ギョロリと眼力(めぢから)たっぷりの風貌で、いかにもふてぶてしく、スター気取りでふんぞり返っていたオッサンが、旗先生だったんですねぇ。私の昭和歌謡熱も、当時は現在ほどではなく、ご高名をまるっきり存じ上げませんでした。

「誰だよ、あの糞偉そうな野郎は?」
「知らねぇけど、合唱祭のチラシには、歌手って書いてあるぜ」
「歌手? だったらアリスの3人に会いてぇなぁ」
「だよな。ライブで『チャンピオン』を唄って欲しいぜ」

当時(1979年)、アリス人気がもの凄く、彼らの大ヒット曲『チャンピオン』のメロディは、鼻歌で唄えるほど、巷に流されまくっていました。

知らないということは恐ろしいことで、私はその日の夜、仕事から帰ってきたお袋に、旗照夫について訊いたところ、芸能界情報の蒐集が大好きな彼女は、「アンタ、旗照夫を知らないの? それは恥ずかしいわよ」と、理不尽なまでに猛烈に叱られました。それはトラウマになるくらいでしたけれど、

おかげで先生のお名前と、これはお世辞でもなんでもなく、本心からそう感じますが──、『あいつ』という昭和歌謡史に残る、名曲中の名曲を、私は昭和に生きる者の〝教養〟として、この歳まで記憶に遺すことになります。

昨今は、世代がかなり異なる皆様が愛してきた、文化や生活風習を、「古い!!」「知らねぇ!!」の一言で、簡単に断捨離してしまう世の中になりましたけれど、ふた昔前ぐらいの感覚では、当人が判ろうが判るまいが、親が子供、教師が生徒に対して、とにかく「日本人の常識、教養として、シノゴノ言わずにしっかり覚えなさい!!」という教育が成り立ちました。

教わった瞬間は、けっこう迷惑な気持ちになることも多々ありましたけれど、でも、のちのちその指導に救われることも多々あり、プラマイ計算では、絶対に、強制的でも教わっておいて損など100%無いはずです。

まぁ、話を元に戻しまして、旗照夫。どうやら今年の同窓会へは、関係者へのアポなど一切無しに、「突然、会場に現れた」のだそうです。

先生は5年前まで、同窓会の会長をやっておりました。現在の、どこぞの有名銀行のお偉方の、まるで面白くも糞ねぇスピーチをしやがる会長に変わるまで、先生のスピーチは、「まるで本人のワンマンショーだったよ」と、同期で会の評議委員をしている、私の親友は、そう〝愚痴〟るのですが、

今や「昭和歌謡を愛する会」を主宰している私にとって、そのスピーチは「ぜひ聴きたい!!」プレミアものです。……が、諸般の事情で、私は数年前まで一度も同窓会に参加できませんでした。私が通い始めた時は、すでに先生は会長職を辞した後だったのです。

以降、旗照夫の情報は、ネット検索で拾うぐらいになりまして、でも失礼ながら、まだ訃報は見聞きしませんし、歌手を引退した記事も流布されませんので、どこかのステージで唄われているのかな? と、昭和歌謡の会を行うたびに、常連のお客さんと話していたのです。

その先生が、ナマの旗照夫が、同窓会当日、私らの同期が飲み食いするブースの、すぐ隣の位置に〝いた〟んです。現在、御年86!! おそらく先生を取り巻くジジババどもは、皆さん、各業界の重鎮方なのでしょうね。その中で、先生だけが背筋をピンと伸ばし、終始、周囲に鋭い視線を這わせつつ、でも表情だけは、柔和な印象を崩さない。〝そこ〟だけ空気が違うんです。嗚呼、これが、いわゆる芸能人オーラってやつなのか!! 思いがけず感動しました。

同期の評議委員に、「悪い、お前の権限で、旗照夫に面通しさせてくれ。そしてツーショットの写真、撮ってくれ」と頼んだ上で、先生に近づき、もう口から出まかせ、サービストークを並べ立てたあげく、気軽に写真撮影に応じてくれた1枚が、これ(↓)です。

今回はハズカシナガラ、話の展開上、私の禿げナス頭もここにさらします。

真横にいる友人が、呆れるくらいの世辞追従を先生に浴びせまくり、これは本当ですが、過去、数回ほど、旗照夫【も】出演していた、昭和歌謡系のコンサートに足を運んだこと、看板ソングの『あいつ』は、「昭和歌謡史に残る、名曲中の名曲!!」であること、……などを一気に訴えました。

自分で言うのも野暮ですが、嬉しかったはずですよぉ~、先生は。この日、会場に集う、結構な数の同窓生のうち、同窓会の運営事務に関わる者以外で、特に今年57歳になる私たち世代より下の連中は、まず間違いなく100%、旗照夫が何者であるか? ご存じないでしょうから。

握手を求めた私の右手を、意外なほど強く握りながら、しばらくの間、離してくれませんでした。明らかに相好を崩した印象の、かつてのビッグスターは、写真撮影を終えたタイミングで、「あー、12月の半ばにな」と語りだしました。都内の某著名ホテルでXmasディナーショーをやり、芸能生活60年、それを花道にして歌手を引退する意志を固めた、という内容の話でした。

はなはだ不謹慎ながら、私は、(ひょっとして、そのディナーショー、俺たちを招待してくれるのかしら?)との期待を抱いておりました。

甘かった!! ですねぇ。当たり前といやぁ、当たり前でしょうが。

逆に、いつまでも先生のそばにいると、ショーのチケットを数枚、「同窓のよしみで、捌いてくれたまえ」てなことを言われそうな予感がいたしましてね。友人も同じ危惧を抱いたようで、あわてて2人、無言で頭を下げながら、その場を立ち去りました。

「旗先生、長年の芸能活動、お疲れ様でした」

この台詞を、御本人に直接、伝え忘れてしまったことを、今この原稿を書いている最中に気付きました。先生は、気軽な物言いで「芸能生活60年」を口にしましたけれど、半端な月日の積み重ねでないことは、言わずもがなです。

同い年の、〝戦友〟に等しいはずのペギー葉山が、ひと足先に彼岸に旅立ってしまった……。その事実が、先生に引退を決意させる、心理的にも大きな起爆剤になったのではないか? そんな気もいたします。

夏目漱石や谷崎潤一郎という、世界に誇る日本の大文学者が、母校の同窓生だという事実よりも、昭和歌謡のビッグスター「旗照夫が大先輩である!!」という事実に、よほど私は誇らしさを感じます。

これはリップサービスでなく、掛け値なしの本音です

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

 

 

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